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■説太郎の著述等

 説太郎が著したものは、ほとんど残っていませんが、わずかに残っているものを下記に示します。
大林芳五郎伝記への寄稿
久原房之助伝記の中に収められている談話あるいはインタビューに答える形で語ったエピソード

・大正5年に53歳の若さで早世された大林組創業者大林芳五郎氏の伝記が昭和15(1940)年に刊行されたが、そこに寄せた手向草

大林芳五郞氏の眞價 大林芳五郎傳より

中山説太郞

 大林故人は、規則だつた學問こそしてゐないが、人間の出來てゐる點は古今獨歩といつてよく、實に洗練琢磨されたもので、この點が大林故人の眞價でもあり且つ大生命でもあつたと思ふ。而してその出來てゐた人間大林から放射された幾多の尖きが、故人の一生を飾つた輝しい美德なのである。その美德をたづねたなら枚擧に遑(いとま)あるまいが、私は、私自身直接味つた二、三を擧げて、人間大林を偲びたいと思ふ。

 曾て私が今西林三郞氏經營の石炭店に番頭であつた或る時、商取引上の僅かの錯誤から、或る取引先より差押を食つたことがある。折惡しく今西氏が旅行不在中であつたので、私は已むなく平常今西氏と莫逆(ばくげき)の友たる故人の許に驅けつけ、先方の惡竦なる手段を詳述して前後の策を相談した。すると故人は『事の善惡は第二段として、差押などとは信用にも關し第一見つともないぢやないか。第一番に差押を解くのが先決問題だよ』と言つて、快よく各種の株券を貸與されたので、直ちに差押を解くことが出來た。當時故人は事業擴張の過渡期であつたから、手許に餘裕のある筈はなかつたのに、しかも友の急に赴くことの勇敢なるかくの如しである。「朋友の饗應には徐(おもむろ)に行き、その厄難には迅速に行け」との諺を實際化したもので、その時私は、有つべきものは友だ、と痛切に感動したのであつた。 それから或る時私は強い感冐に臥したことがある。偶いま床についたばかりの時故人が來訪せられて、御自分は忙殺されるほど繁多の身でありながら、それ醫師よ藥よと自ら先頭にたつて斡旋し、その他看護上に就き何くれとなく家人を指圖し、漸く小康を得るに及んで深夜歸宅されたことがある。滅私奉公といふが、私等のやうな小さい友に對してさへさういふ場合は自己を忘れてゐられる。私はその時、この人は何處まで親切な人だらうと、無限の親切味に沁み沁みと泣かされたのであつた。

 かやうな故人の人間味が常に故人周圍の友に反映したのであらう。彼の日淸戰爭後に起つた明治三十四年の財界の大恐慌時に、その餘波たる金融梗塞に祟られた故人が、萬策盡きて遂に大林組の解散を決意するに至つた時、今西氏を首(はじ)め我々に至るまで多數の友人が、大林危しとの警報に期せずして馳せ集り、全力を盡して故人の城塞を死守したのであつた。幸ひに築港工事の當路者西村捨三翁や平田專太郞氏等の同情によつて崩壞を免れたが、かく多數の友人が期せずして馳せ集つたといふことは、無論故人平素の友情がかくさせたことを雄辯に物語つてゐる。西村翁等の同情によつて漸く愁眉の開かれた時、誰の發議であつたか、城塞死守の困苦を記念する爲、毎年この日に相寄つて麥飯(むぎめし)會でも開かうぢやないか、などと笑ひ合つたのであつたが、津々として盡きない相互友情の濃かさが窺知される。

 故人の慈愛は、佛者の衆生縁の慈ともいふのであらう、全く一視同仁的のもので、友人に對しては無論のこと、家族に對しても、親戚縁者に對しても、部下又は僕婢(ぼくひ)に對しても、或は世間一般人に對しても、普遍的にその愛が灑(そそ)がれたやうに思ふ。私の知つてゐる下の一事の如きは、部下に對する慈愛を最もよく現してゐる。或る日、私は故人をその邸に訪ふたことがある。他に來客とのことで暫し別室で待つてゐた。すると故人の居間から故人の大喝が洩れて來る。私は只事ならずと案じてゐたが、大喝は二、三聲で歇み、數分の後故人は何時ものやうに莞爾として現はれ、今大喝した興奮の氣色など少しも見えなかつた。そして故人は徐に語り出した。『大きな聲をお聞かせして誠に恥かしい。實は君も知つてゐるA社員(今は故人)が、某請負工事の取下金を受取つた儘會計係に廻さないといふので、今本人を呼んで聽き糺して見ると費消したのでなく、全く紛失したもので、本人は自己の失態を愧ぢて密かに金策に狂奔中とのこと。相當大金ではあるが、虚言をつく男ではなし、この際前途有望な若い社員を傷者にするのも可愛想なので、今後を戒めて大喝を喰はし、俺からこの金を受けたといふことを絶對秘密に、忘れてゐたことにして早く會計に持つて行けと言つて、今その金を渡してやつたとこですよ。君はこの措置をどう考へるかね』といふことであつた。私は言下に『それは善いことをなさつた。A君は必ず貴方に對する忠良の臣となるでせう』と答へたのであつたが、果してA社員は一生涯心血を灑(そそ)いで故人に忠勤を抽んじたのであつた。餘程人間が出來てゐなかつたなら、かうした措置は容易に採れるものでない。しかもその時の故人の態度は、光風霽月(こうふうせいげつ)平然たるものがあり、故人の姿に後光でもさしてゐるやうに感じられた。一貴一賤交情乃ち見はる、といつた現金主義も差別もなく、他人の困つたといふ場合に對する故人の關心は想像もつかないほどの強烈さで、神のやうな美しさを常に示してゐる。

 次にこれは多少その趣を異にしてゐるが、中々面白いので偲び草の一に加へよう。故人は非常に談話が好きで且つ長けてもゐた。私も至つて好きな方なので、談話に興が乘つて來ると夜の更けるのも知らず、遂ひ故人の宅に泊り込んだことが再三あつた。その最初の晩である。寢室に案内されると二ツの蓐(しとね)が延べてある。おかしいなと思つてゐると故人がやつて來て、初めて一方のが故人の蓐と判つた。そして故人の言が面白い。『かう二人で枕を並べて寢ると、床の中でも話が出來るからね』といふわけ。客人は別室に、自分は妻妾の愛に浸るといふのが普通人の例なのに、その談話の徹底的に好きなことゝ、友情の何處迄も厚いのに私はほとほと感心させられたのであつた。

 その他故人の美德逸事が、各方面の先輩知友によつて數多讃へられることゝ思ふが、大林芳五郞氏の眞の姿を見ようとするなら、人間の出來てゐる點を捉へるのが、最も判り易い捷徑(しょうけい)と信ずるのである。



・昭和45年に日本鉱業(株)が創業者久原房之助の伝記を編纂したが、その中に談話あるいはインタビューに答える形で語ったエピソードが収録されている

P211-212 ロシアへの銅の売込みについて

「私がまだ日魯漁業時代のことだが、会社は氷海を航行できる砕氷船を持たなかったので、口シアの業者と太刀討ができない。ひとつロシアの船を買ってやろうと、通訳をづれて、ペトログラードへ乗り込んだ。(当時の駐露大使は本野一郎)・・・ところが、ロシアでは船は売るどころか買いたいくらいで、売船は一隻もない。仕方がない、せっかく来たんだからと腰を据えて滞在中、ある日、ロシアの武官からロシアでは銅を欲しがっている、イギリスからの輸入が止まって困っていると聞いた。これは面白い、金もうけの材料になるかも知れん。そこで本野大使夫人の斡旋でロシアの陸軍参謀総長に会い意向を打診すると、二つ返事でいくらでも買いたいという。しかし私は資金も乏しいので前金をもらわないと集めかねるという
と、それならと邦貨で3千万円だったかはっきり記憶せぬが、すぐ日本のロシア大使館にあて送金の電報を打ってくれた。私もすぐに久原あてに、急いで銅を大量に買い集めるよう電報でで交渉した。この銅の売り込みで、久原は大もうけをしよろこんだ。・・・その後、ロシアニコライ皇帝の伯父に当たる人(ジョルジュ大公)が観光旅行で日本にやってきたが、このとき、久原では大いに歓迎した。・・・」

P216 日本汽船の発足について

「日魯漁業は次第に発展し業積をあげたが、なにしろ漁期か夏場だけで冬はさっぱり。そこで近海漁業を計画した。ちょうどそのとき、伊豆伊東のブリ漁場の大敷網の競争入札を耳にしたので、手付金5万円を懐中にして伊東へ乗込んだ。入札日の前夜、宿舎で寝ながらふと考えた。ときは大正3年の暮だったと思う。ヨーロッパの動乱が次第に拡がり、やがては大戦争になる気配だった。これからは船が面白いんじゃなかろうか。同伴した主任の植木憲吉(のちの日本水産社長)に話したら同感だという。そんならブリを船に乗り替えよう。ずいぶん乱暴な話だが入札を断って、翌朝、その足で大阪の船持ち岸本兼太郎商店に交渉して、3千トン級の中占貨物船を買付け、手付金5万円を払った。それから、中古船を2-3隻買い集め、海運業者にチャーターし、相当の利益をあげた。そしてこれをもとでに、大正4年、日本汽船株式会社を設立し、いよいよ本格的に船舶のブローカーをはじめた。・・・・」

P232 下松計画について

-久原さんが下松の造船所をやられる時には、どのくらいのお金があったのでしょうか。
(中山)そのころ久原さんの財産は2億6千万円ぐらいはあったですな。その当時、三井・三菱が4億といっていたんですからな。
-その半分以上もあったんですよね。
(中山)『そんなにあるかなあ』いうて、二楽荘で久原さんと話して、『まあ、それならやるか』ということになってね。それで、下松の造船所をはじめたわけですわ」(「山本英一(元日立造船庶務課長)との対談記録」)

P318 久原鉱業株の買占め事件について

「そのころ、久原はドン底で久原鉱業の株は30円台。これではどうにもならん。もとの久原鉱業のように盛大にしたいと考えた。久原鉱業の信用もよくない。株主にもグズグズいわさぬために、有名な岩田宙造を監査役にたのんだ。私は久原の黒幕になって、久原鉱業株を買い漁った。金繰りには高利貸も利用した。買占めがきき出し一時株価も百円台にせり上がったが、売り方から手がまわり、時の大蔵大臣片岡直温が、久原株の利益は政友会の政治資金にまわると認め、投機を目的とする株の融資はまかりならんと各銀行に厳命したものだから、昨日までは株を抵当に融資してくれたのに、どこの銀行でも口実をかまえて断るのでどうすることもならず、株は暴落して大きな痛手を受けた。そんなこともあって私も責任をとることになり、久原との関係はしだいに疎遠になったのである。」