建物等について 明治後期の地図 今現在のようす 中山説太郎とは更新 説太郎の著述等 再生に向かって更新 林之助のカトレヤ

■中山説太郎とは

中山説太郎は、明治、大正、昭和を駆け抜けた、連島西ノ浦出身の実業家です。明治6年(1873)、成羽藩山崎家が所領する西之浦村の陣屋に勤める武士中山才一郎の長男として生まれています。小学校卒業後、上阪し、薩摩の経済人五代友厚が創った大阪商業学校に学びます。卒業後、上野商店、島徳商店、久原鉱業とキャリアを積んでいきます。
●上野商店では、水産会社を創立します。のちに北洋漁業に関わるようになりますが、その素地になったはずです。島徳商店では、鉱山の経営を任されますが、その鉱山が久原鉱業に買収され、のちに主人と仰ぐ久原房之助に見出されます。久原鉱業では、日魯漁業の経営に参画します、漁業に使う砕氷船の調達でロシア帝国に向かいますが、銅不足に悩む帝政ロシアに日本国内の銅を輸出するビジネス(「ロシアへの銅の売り込みについて」参照)を成功させ、久原鉱業に大きな利益をもたらします。これにより、大正4年、42才の若さで、久原鉱業の屋台骨を支える専務取締役に就きます。久原財閥の大番頭の誕生です。旧中山家住宅は、この前後に建設されます。久原の神戸住吉の本邸のような住居を夢描いていたかも知れません。
●説太郎は、久原資本を使って次々と事業を立ち上げていきます。昭和18年までに刊行された人事興信録から会社名が特定できます。少なくとも、20社の役員に就いていました。日魯漁業では、大正3年の創業から、取締役になっていましたが、大正4年の興信録(第4版)には記載がありません、昭和6、9年のそれには、説太郎が完全に抜けています、よって興信録を100%信ずることはできませんが、多くの会社の役員を務めていたことは事実でしょう。

                 

人事興信録より抽出作成

時事新報全国50万円資産家調査(大正5年)より


説太郎の年譜

1873(明治 6)0才一郎の長男として誕生
1888(明治21)16小学校卒業、一時教鞭をとる
1889(明治22)17上阪し、学校選択を図る
1891(明治24)18大阪商業学校入学(後の大阪市立大学)
1895(明治28)22卒業後、上野商店入社
1896(明治29)22新規事業開拓のため、台湾に渡る
1906(明治39)33島徳商店入社
1910(明治43)37久原鉱業(後の日本鉱業→JX金属)入社
1914(大正3)41日魯漁業(後のマルハニチロ)専務取締役
1915(大正4)42久原鉱業専務取締役、日本汽船の創業
1918(大正7)45大阪鉄工所(後の日立造船)専務取締役
1919(大正8)46国際汽船の創業、専務取締役
1920(大正9)47氷室組の創業、社長
1925(大正14)52氷室組の倒産
1927(昭和2)54久原鉱業退社
1928~1945年この間、毛皮事業に専心、仔細は不詳
1946(昭和21)73連島西之浦に帰郷
1961(昭和36)88病没
●大正5年の50万円資産家調査では、函館在住の説太郎がリストアップされています。そこには、財産として、不動産1万2千円、郷里岡山不動産2万円、有価証券久原鉱業株3千7百株、外合算57万円が挙げられています。ちなみに、当時の貨幣価値が現在比で1/3000であれば、岡山の不動産価値6000万円は、丘陵地に確保した山野(中山家住宅の敷地を含む)の価値でしょうか? 左端にある堤清六は、説太郎とともに日魯漁業を社長として立ち上げた人物です。
●第一次世界大戦(1914~18)後の世界恐慌で、久原のビジネスは大打撃を受けます。久原の政界進出もあって、久原のビジネスは久原の義兄鮎川義介への譲渡を含めて大幅に縮小します。それに伴って、説太郎も久原と疎遠になっていきます。昭和になって毛皮事業のみに専念している様子が、先の興信録から読み取れます。
●戦後には、西之浦の自邸(=旧中山家住宅)で、悠々自適の生活を送ったようです。パン工房でパンを作ったり、日本酒の醸造も楽しんでいたことが伝わっています。近隣の方々に宝塚歌劇団の観劇バスツアーを世話したとの情報もありました。説太郎の生涯を簡単にまとめると、右の年譜のようになります。


■中山家三代について

 幕末から明治、家禄を失い先行き不安に翻弄されたであろう武士=才一郎、明治から大正にかけて日本資本主義の揺籃期にその才智を駆使して駆け抜け、一方で2つの世界大戦では手痛い傷を受けた実業家=説太郎、さらに、世界大戦の合間に父説太郎よろしく一山を当てようとラン育種栽培ビジネスにトライしたものの、やむなく中断し、育種・栽培技術の普及啓蒙で大いに日本ラン界をリードしたカトレヤ育種家=林之助、あらためて、この中山家三代の生涯を概観してみます。

○才一郎

説太郎の成功譚は、幕末の動乱と明治新政府の混乱の中で、下級武士一家がどのようにして生き
延びたか、それを語ってくれます。
実は、本ページの冒頭の記述は正確さを欠いています。中山家の仕えていた山崎家は、明治元年になって藩になります。それまでは交代寄合山崎家の所領地で、藩としては認められていません。説太郎の生まれた明治6年には、廃藩置県により、成羽県、深津県を経て、すでに小田県になっています(その後、さらに岡山県に併合)。
●才一郎が生まれた4年後、嘉永6(1853)年の黒船来航をはじめとして諸外国からの開国要求への対応をめぐって、大老井伊直弼による安政の大獄があり、桜田門外の変で井伊は暗殺されます。
●慶応3年、大政奉還のあった年、才一郎は18才です。陣屋勤めはしていたでしょうが、家督の継承は不明です。翌年には鳥羽伏見の戦いがあり、さらに戊辰戦争に発展していきます。交代寄合・山崎家は旗本ですから、本来なら幕府方についたはずです。しかし新政府軍寄りだったようです。治安維持を目的に農兵隊(騰竜隊、奮獅隊)を組織していますし、幕末に新田開発で1万石以上になったとして成羽藩を立藩しています(維新立藩、これが後の男爵につながっていきます)。戊辰戦争には兵を送っていません、減封されていないところをみると、協力的だったと考えられます。
●明治2年、版籍奉還が実施されます。藩主山崎冶祇(はるよし)は知藩事になり、中山家は卒族(のちに士族)になります。明治4年、才一郎22才で廃藩置県、壬申戸籍を経験します。成羽藩が成羽県に変わり、知藩事は罷免され、代わって中央政府から県知事が送り込まれます。すでに、主従関係はなくなっていましたが、残っていた徴税の仕事もなくなり、無役となります。才一郎は、西浦陣屋で、この激動をどのように捉えたでしょうか。

陣屋詰め藩士

連嶋町史には、大政奉還(町史では幕政奉還)、廃藩置県の章に、右の囲みのような記述があります(P370)。父君の貞造氏とともに、才一郎の名が見えます、順位は下位の方です。
●無役になっても、明治政府から家禄は支給されています。わかりやすくいえば、年金生活です。才一郎の家禄は、1人扶持、つまり1人が食べていけるだけの収入しかありません。そんな中、明治新政府は、家禄奉還を打ち出します。家禄の支給が、国家財政の40%近くを占めていたからです。今後の家禄支給を打ち切ることを条件に、6年分の家禄を一度に支給するという制度(半分は現金で、残りの半分は、年利8%の公債)です。士族の授産を勧める狙いもあったようです。才一郎が、家禄奉還に応じたかどうかは分かりませんが、資金運用の術を知っていれば応じたと考えられます。
●映画にもなった「武士の家計簿」(磯田道史著)に、家禄奉還に応じて、まとまった現金を手にした下級武士が、それをどのように資産運用するかの選択が論じられています。
  運用方法 期待利回り 元本リスク 流動性
A.農地を購入し地代を得る 7.5% 小 低
B.借家を購入し家賃を得る 13% 中→小 低
C.会社に預金して利子を得る 15% 大→中 高
D.親戚知人に貸し利子を得る 20% 甚大 中
 才一郎が、どのような資金運用をしたかは明らかではありません。後に説太郎が大阪に出て実業の世界に身を置く選択をしていますが、得られた財貨をCの方法で運用する芽は、ここにあったと推量できます。
●才一郎が説太郎をどのように導いたかを示す資料は発見できていません。武士の居場所が明治の近代化につれて失われていくことに鬱屈していた様子は見てとれます。それに比して、母鹿野は気丈夫で、説太郎の上阪を応援する姿が記録されています。才一郎は、晩年、この住宅で悠々と生活していたようです。1934(昭和9)年、85才で死去。

○説太郎

●ところが、中山家の選んだ選択は、さらにもっとリスクの高いものでした。「息子・説太郎が、上阪して、学校で学び、それ
を実業で生かす」です。運用益のない投資です。大阪への旅立ちにあたって、母鹿野は75円もの大金を餞に用意し、「青雲の志止み難い」息子の将来に、「武士が雲のように起こり天下を取った」輝かしい事例を重ねていたように思います。

久原本邸

のちに、説太郎は、母鹿野の「家老のような家」に住みたい(「明治の青雲」所収、娘の思い出記より)という建設動機を語りますが、餞への返礼だったのかもしれません。
●上野商店では、倒産した毛織物会社の再生とその売却で得た利益、島徳商店では、経営を任された鉱山を久原鉱業に高値売却で得た利益の一部を資金提供者より提供され「小成金になった」と自分を評しています。直後に、久原房之助に請われて久原鉱業に入社します。神戸住吉の久原本邸(明治37年建設)で説得されたはずです。甲子園球場の2.5倍もの膨大な敷地の中に、和風庭園付き屋敷、ロシア風洋館などを見て、小成金が住宅建設を思い立ったことは容易に想像できます。邸宅は、富豪のステータスです、そして、急いで富豪になっていきます。「貧乏士族が両親の希望で殿様形式の邸宅を親孝行のため建てた」(「明治の青雲」林之助序より)との説明が、後付けに聞こえます。
●大正8年、住宅の落成式がありました、丸2日間ドンチャン騒ぎだった様子が伝えられています。それに兼ねて、説太郎の父母、才一郎(69才)・鹿野(67才)夫妻の金婚式が催されています。最前列左端が説太郎(46才)です、前年に生まれたばかりの五女米子を抱いています。

落成式兼金婚式

金婚式を祝う風習は、もともと日本社会にはなかったのですが、明治中期にイギリスからもたされたものが急速に広まったようです、中山家は進んで取り入れたのでしょう。才一郎は、裃に脇差、武士の正装です、時代は移っても、心根はまだ武士であったのでしょうか?
●中国の辛亥革命を主導した孫文を資金的に支援した久原房之助の名代として、説太郎は革命グループへの借款の実務を担っています、その額240万円。
●説太郎は、戦後帰郷してこの住居に住みますが、それまで殆ど住んでいません。年に1,2回の帰郷は「殿様のお国入り」のようで、留守居は、準備方大変だったようです。昭和14年まで、留守居は、分家した義兄の中山繁でした。
●説太郎の住まいの全体は知られていません。明治43~大正5年まで函館に、大正5年から大阪堂島に、いつのころから神戸須磨に、居を構えていたことが最近明らかになりました。
●昭和30年代に、「水島地帯に工場誘致の推進に尽力、それと同じ時に五十年来の旧知の松永安佐衛門、小林一三両氏が、相ついで来宅され、それを機に、中央の大企業進出を依頼協力をお願いしました、後に関係会社、日本鉱業・川崎製鉄の両社が、工場を建設することに決り、その創業を楽しみ待ち望んでいました」と林之助が語っています(「明治の青雲」林之助序より)。この独白を支える史料はありませんが、当時、この住宅に出入りしていた三宅勇次郎氏(住宅の現所有者の祖父)が伝えるある会合の参加者の顔ぶれを見れば、工場誘致に尽力したことは確かなようです。
●1961(昭和36)年、88歳で死去。
●説太郎を中心にした中山家の家系図です(人事興信録[大正7~昭和18年]の記述から作成したもの、この資料では説太郎の生年が明治7年になっている、他の資料では明治6年)。

中山家家系図

○林之助

●林之助は、明治43年、父説太郎37才、母千代18才のとき、中山家の長男として誕生します。
幼年期は、この住居で過ごしていたことは明らかですが、十代半ばには、神戸垂水(?)に転居しているようです。
●林之助は、園芸学校に学びます。在学中にランの無菌培養技術に触れ、卒業後、ランの聖地「大山崎の加賀邸(大山崎山荘)」に通ううちに、ランの栽培ビジネスを志します。昭和10年、26才のとき、栽培適地を求めて台湾に渡り、栽培技術を磨いていきます。実は、父説太郎も、23才(明治29年)の頃、上野商店の新規ビジネス開拓のため、1年間台湾に滞在しています、得るところなしとの判断で帰阪しています、林之助の渡台に少なからず関与しているはずです。
●5年目には、実生も2万株になり、カトレヤ交配も商売になってきたようですが、留守居の義兄繁の死と戦況の悪化と物資不足から、昭和15年、帰日し帰郷します。邸宅の留守居は、林之助になります。
●地元の連島郵便局長を務めながら、ランの育種と栽培技術の普及に精力的に活躍します。 日本洋蘭農業協同組合の初期(昭和20~30年)の組合報に多くの記事を寄稿/日本・蘭協会会長(1981~1990)/「沖縄国際洋ラン博覧会(1987~)」に参画/1987年世界ラン会議・ラン展組織委員会副会長/日本・蘭協会名誉会長(1991~2010)/蘭おかやま(1991~2006)の実行委員長などです。
●2005年、NHKハイビジョンふるさと発「失われた蘭の楽園」に出演しています。その中で、大山崎山荘由来の蘭から新しく交配した蘭「ムラサキノ」が実をつけたことが紹介されています。
●2009年、白寿の祝い、かつて台湾で指導し、後に胡蝶蘭の栽培で大成功した李金盛も参加しています。2010(平成22)年、100歳で死去。

「失われた蘭の楽園」の1シーン
大山崎山荘由来のランの交配

白寿の祝い後、長屋門前にて(中央の2人)


■説太郎の紹介記事

ところが、これほど活躍していたにもかかわらず、説太郎の紹介記事は多くありません。以下には、入手できた3つの記事を載せていますが、久原房之助の黒子に徹していたことにその一因がありそうです。

●連嶋町史(昭和31年刊) 連島の人物誌より P338-9

中山説太郎(1873~

 氏は才一郎の長男として本町西之浦に生まれた。中山氏は元岡田藩に仕えたが後に成羽藩に仕え西之浦陣屋に勤務せし故明治維新後士族となられた。 説太郎氏は小学校卒業後、十六才にして一時連島校に教鞭をとりしも志を立て上阪し、間もなく東京へも行ったが再び大阪に帰り二十四年に大阪商業学校に(今の大阪市立大学の前身)に入学し二十八年に卒業した。卒業後上野商店に入り、石
炭、鉄、羊毛等の商業に従事し台湾や樺太等をも視察し水産会社を興した。三十二年島徳商店に入り徳島の持部鉱山、東山鉱山の経営を担当すること五ヶ年なりしも、此等の鉱山が久原鉱業株式会社に買収せられることになり久原鉱業に入社した。日魯漁業を設立(資本金三百万円)し商用を以て露都に赴き、製銅を露国政府に売渡して大に利益をあげたので帰朝後大正六年には久原鉱業の専務取締役となった。後久原商事株式会社が創立されたので又専務取締役を兼ね株式会社大阪鉄工所の取締役をも兼務された。第一次欧州戦頃に日魯漁業を解体し之を基として日本汽船会社を創立し又其専務役を兼ねた。当時諸会社の専務として個人的にも大成功を遂げられたので巨万の財を得て郷里に大邸宅を建築された。西浦小学校講堂其他の資をも寄附せられた。
 大正九年に第一次欧州大戦が止んだので経済界は恐慌を来し、久原商事会社が先ず整理を発表し続いて関係各会社共整理状態となり、久原氏は政界入りをすることになったので、氏は関係各会社より退隠することになり、その後は冷凍船を建設して冷凍事業を経営したり、或は朝鮮で鉱山事業を計画したりなどされたが、日米終戦後は、老年の為に帰郷家居せられて今日に至って居られる。

●大阪財界人物史(大正14年刊) P259-260

久原鉱業株式会社 専務取締役 中山説太郎氏

 其貎は則ち粹然一才人、無髯の好大夫、炬生する巨瞳と引締つだ口元、全体に意気、才情の横溢し、千発せるが如き、少くとも当代華城実業界の異彩たる中山説太郎氏は実に、本列伝中逸すべからざる一人とす。
 氏は岡山県士族中山才一郎氏の長男、小壮志を立てて大阪に出て、久原氏の認識するところと為り、一躍久原家の中堅と為り、往年戦後好況に際し、奇策縦横、為すこと皆策中す、大胆なる久原の商策の陰に、 雄図を健蔵する中山氏あり、智略、識才、併び有し、かつ資本階級としては、極めて円満にして人望ある久原房之助氏を擁し、氏が尖鋭衝(あた)るべからず、八方閃躍する謀計を活描する久原一段の映画は、実に、当時何人も其の矢面に立つ能はざらしめき。
 久原家は、当時、一方、才気煥発(かんぱつ)、縱横の奇才たる氏を右翼に、深沈果決(かけつ)、着実穏健なる山岡千太郎を左翼とし、而してこの左右両将は予(か)ねて竹馬たり、又莫逆(ばくぎゃく)たり、水魚相縁(よ)りて以て内外響応し、鉱業会社の大企図一たび天下に公表せらるゝや、競進してその株を獲んとするもの、忽(たちま)ちにして満株を越ゆ、時勢を見るは中山氏の尤も明とする処、戦国的英雄の面目は蓋し氏の尤も理想とする処ならん。
 氏は久しく久原家、北辺の業を大宰して、露領沿海の漁業権を掌握して、北海の鎖ヤク、海風万里、波涛相搏(そうばく)の処に、溌剌たる鮮鱗を網尽して、大に東洋男児の雄風を誇称したる、氏ならずんば能はざる処。  而かもこれ氏にとりては、其才貎の一班のみ、氏今や凍漁船の新事業に隱れ、久原鉱業の一角に埋るといえども、雄才漸く政界に其覇を称とする寸光勺影を投じ来る、想ふに、氏の過去はかくの如く華燿あり。氏の前途は更らに一層の光明あるべし。
 要するに、氏は華城財界の奇傑にして、これを戦国武士に例を求むれば。それ直江山城守直続(兼続?)乎。

●大本百松伝(昭和37年刊) P28-30

 中山説太郎(1873-1961)も連島、西の浦の生まれだ。中山と言っても、今は知っている人も、少なくなったろうが、第一次世界戦争(1914-20)の、いわゆる「成金」時代には、一代の惑星として、日本の実業界を起伏せしめた、快男子である。
 大阪商業学校(今の(注)大阪大学)を卒業後、島徳蔵商店に入り、同商店所有の諸鉱山の開発に成功し、ついに、山と一緒に久原鉱業株式会社に併合され、「久原」の専務にすえられたのが、世間に知られる発端である。その八面六臂も活躍振りは、つねに話の種を蒔いて、華やかな舞台を展開さしたものだ。
 その一例をあげると、プレミヤム――。株券に対する「権利割増金」、の競買を、取引所でやらしたのは、日本では、中山が最初の人である。「久原」の代表者として、その戦争中、銅の払底に悲鳴をあげる露西亜帝国の首都ペテルブルグ(レニングラード)に乗込み、中山は、その売込みに凄い腕を揮って、大成功をおさめた。それは、図にあたった。一株につき、50円の高値を噴くに至った。その時の、彼の暗中飛躍は、じつに目覚しいものだった――、と、北浜雀の囀る「島徳物語」の中で、よく聞かされる一節なんだ。
 ことに面白いのはそのロシアへ行ったとき、向こうの要路者に捻じこんで、北海漁業の権利を獲得し、帰朝するとすぐ、「日露漁業」を創立したことだ。いかにも、海に縁のある、連島人らしいではないか。
日本中を煙にまいて、せせら笑ってる“面魂”の太さ、中山説太郎は、どこまでも、「海賊大将軍」の地をひく、連島男であった。
 晩年は、連島西ノ浦の自邸に、悠々自適しておった。風雲に乗じる者は、風雲が起こらねば、いかなる偉材も、活動の舞台がない。彼のような、資本主義自由時代に大きくなった人間は、こんどの大戦争にも、働く余地はなかった。昭和36年10月、自邸に病没、享年88
(注)この「大阪大学」は、大阪市立大学を指している