建物等について 明治後期の地図 今現在のようす 中山説太郎とは更新 説太郎の著述等 再生に向かって更新 林之助のカトレヤ

■建物等について-建築様式や規模-

 中山家当主である中山説太郎が、出身地である現在の倉敷市連島町西之浦に邸宅建設の準備を始めたのは、明治44年(1911)頃のことであり、それから約10年の歳月をかけ大正8年に、建物および庭園などの住宅全体がようやく完成した。
 「お城の様な家に住んでみたい」というご母堂の念願に応えたいという孝行心からの建設であったようである。説太郎は、建設費用として、40万円を用意したという。1万坪におよぶ自前の土地から、約1000坪を敷地として確保した。

石垣再工事風景(大正6年)

敷地全体と建物配置

住宅主屋は、(木造2階建、桟瓦葺、入母屋造/大正3年(1914)竣工、昭和57年(1982)一部改修増築)

南面
およそ、桁行10間、梁間8間の規模である。長屋門と離れ屋の間に位置し南端は広縁を介して流水を配置した広い庭園がある。
 1階は桁行10間、梁行8間の規模で、後に東側で桁行半間、梁行4間の増築とともに、台所、食堂、脱衣、浴室、WCが、アルミサッシや乾式新建材にて改修されている。外壁もこの部位はモルタル仕上げとなっている。表玄関の軒は吹寄垂木の化粧木舞天井で、玄関内部は四半張りの白御影石貼床で式台を備えた格式の高い構えとなっている。
 外壁は、白漆喰塗り(一部割竹縦張り)とし、中央部からやや右寄りに玄開、6帖の取次の間を設ける。取次の間の右手に
は蹴込み床の付いた6帖の和室があり、その奥は3畳ほどの板の間を介して、14帖の奥の間や台所、食堂へとつながる。―方、取次の間の左手には、竿縁天井の12帖と15帖の続き間(天井高は高い)があり、客間として使われている。
 客間には南と西の面に疂敷の広縁があり、西の広縁は一部が板敷となって北面へ繋がる。取次の間の正面奥は14帖の奥の間に繋がり、奥の間からは左手に疂敷きの中廊下ヘと繋がる。中廊下は、北側に二つの和室(8帖)をそれぞれ繋ぎながら、西の板敷広縁にでる。北面の和室は、それぞれ床付きで、北面の板敷広縁を介して、中庭を眺めることが出来る。
 木造2階建て(厨子2階で2階は物置)の上屋根は人母屋造り桟瓦葺きとなっており下屋根は桟瓦葺きで軒先1030mm幅は銅板葺きとなっている。軒の出は跳ね木により1930mm程度あり、茅負、木負。地垂木により厚みのある屋根となっいるが桟瓦の使用により俊爽な雰囲気がある。

長屋門は、(木造2階建、本瓦葺、入母屋造/大正4年(1915)竣工)

西面
桁行15間、粱間2間半の規模で、中央やや左寄りに間口3間の総ケヤキづくりの両開き扉を設ける。扉の脇には加老庵(建設当時は、陽備園とよばれていた)という札が掛かる。外壁は白漆喰塗り(東面の腰はなまこ壁)で、南面、西面に半間から一間の下屋を設ける。門を入って左面に、供部屋と称する使用人の住居として8帖と6帖の続き間がある。8帖には、床と押入がつき、6帖には一間半の押入がつく。
 8帖の南面から西面に濡れ縁がつき、南面には外便所も設けられていた。門の右側は、元は納屋と風呂、便所であったが、その後、納屋の一部が使用人(女中)部屋として改装され6帖と3帖の和室となっている。いずれにも押入がつく。全体として、非常に大きく武家屋敷のような威厳があり、かつて説太郎の母が「お城のように」にと要望したとおりの風格ある門となっている。

離れ屋は、(木造2階建、桟瓦葺、入母屋造/大正3年(1914)竣工)

東面
母屋より渡廊下で接続されており、1、2階に和室が続き間で配置されている。廊下(縁)を介して便所が南西の角に配置されている。2階の和室8帖の部屋からは水島の町や遠く海も眼下に見渡せる好位置にあり東と南側の縁は雨戸を開けれぱ濡れ縁となり自然の風
を取り入れた構造となっている。貴賓客の宿泊や打合せの部屋として活用したものと思われ、もともと台所やキッチンは無かったが後にLDKを増築している(この増築部分は撒去)。屋根は桟瓦葺きで2階は入母屋造りで縁の屋根は銅版葺きとしている。1階は飛燕垂木と地垂木を配し大きく軒を出し、軒先74cmを銅版葺きとしている。内蔵は2階建て土蔵造りで屋根は桟瓦葺きの切り妻、外壁は黒漆喰塗りで腰部はなまこ壁となっている。

中蔵、米蔵は、(木造2階建(土蔵造)、本瓦葺、切妻屋根/大正3年(1914)竣工)

東面
離れ屋の北側に中蔵と米蔵が平行に並んで建てられている。士蔵造りの2階建てで入口はいずれも東向きで床は高く、10~12段の石階段で上がる。屋根は本瓦葺きの切り妻。外壁は黒漆喰となまこ壁となっている。南と北側の壁には木板も使われている。

いくつかのエピソード

大本組60年史,100年史より

石垣(石垣を南下から仰ぐ)は、南向き斜面に平地を造るため、南と東西に積まれている。11mの高さがあり、当初2段の石組みで設計施工されたようであるが、10年にわたる工事の途中で2度、大雨により崩れてしまったと伝えられている。この工事は、地元の鶴新田出身の大本百松=現大本組の創業者を中心とした職人衆が担当したことが伝えられている。あらためて大阪の大林組に依頼し、城壁造成専門の土木技師の指導の下で、隅角部に生の松丸太を埋め、長さ6尺にもなる石柱を使うなど(大阪城の石垣にならって)工事がなされている。武者返しと呼ばれるアーチ状に積まれており、「お城のような」の体現かもしれない。霞橋を渡る、石材を運ぶ大八車の列が「アリンゴ(蟻)の行列のよう・・」と評した古老の言葉が伝わっているが、その石材は北木島産であることが最近確認され(鳴本石材調べ)、玉島港で荷揚げされ、人力で運搬された。
*a)大本組60年史、P60、「 大正6年に、当時連島で、飛ぶ鳥を落とす勢いであった久原鉱業所専務理事中山説太郎邸の、部分工事の請負いをしている」
*b)大本組100年史、P11、「この時期には、久原鉱業所の専務理事、中山説太郎氏の邸宅の部分工事を請け負っており、造船の仕事ばかりでなく、住宅工事も手がけていた」

母屋は、京都から呼び寄せた棟梁の指導の下、地元連島の大工(中野)が施工、一方茶室等(現存せず)は京都から大工や左官を呼び、庭は東京の久原家出人りの庭師(三樹園)が多数来て作庭すると言う、それは大がかりな工事となった。

の池は、倉敷芸術科学大学下の取水池、濾過池から清水を引いている。その流路は、鉄管で裏庭の池まで、そこから内蔵東へ、渡廊下の下を通って庭の池につながるルートである(現当主の幹朗氏は、裏庭の池で、子どものころ、舟を浮かべて魚釣りをしていたとの思い出を語っている)。説太郎の師であった久原房之助は、鉱山開発での水抜きの経験から、神戸住吉の邸宅に山の清水を引いた冷房装置を使っていたと伝えられるが、説太郎も倣ったのかもしれない。

迎賓館としても 利用されていた。公選2人目の三木岡山県知事(1951(昭和26)~1964(昭和39))は、県南に工業地帯を建設し、企業誘致に傾注していた。候補地が水島に決まってから、まず三菱石油の誘致(1958/2)に成功し(300回以上日参したとの逸話が残っている)、つぎに日本鉱業(1959/9)の誘致にも成功した。つづいて、川崎製鉄の誘致にかかるが、すでに山口県に決まっていた立地先を易々と変更できるわけがない。神戸の川鉄本社に足繁く通い「また、あいつが来たか」と川鉄幹部があきれるほどだったという。ちょうど、そのころ、この事態の打開を目指してある会合がこの邸で行われているらしい。当時、この邸に出入りしていた三宅勇次郎(現所有者の祖父)が、会合の昼食会参加者の中で、「印象にのこった人達」を挙げている。
小林中影の経団連会長と云われた実力者、1956産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)
松永安左ヱ衛門戦後、電力会社9社に編成し、日本経済の発展の基礎を築いた恩人
西山弥太郎当時の川崎製鉄社長(1950/8~1966/7)
藤本一郎後の川鉄社長(1966/7~1977/8)
平塚常次郎日魯漁業社長(1950/10~1955)
三木行治岡山県知事(1951/5~1964/9)
もとより、この会合の内容は不詳であるが、勇次郎は「水島コンビナート計画はここで決まった由緒ある場所である」と断言している。また、以下に示すように、平塚氏と藤本氏との交友録も話している。
 昼食会後のデザートとして、勇次郎が、三宅農園で栽培していた清水白桃を出したところ、平塚氏は「こんなうまい桃は初めて」とたいへん感激した、これが縁で以後毎年7月に清水白桃を送り、その返礼として、暮れに新巻鮭と数の子が、勇次郎が亡くなるまで送られてきていた。また、勇次郎が農園で農作業をいているところに、藤本氏が突然来て、「三宅さん、ここへ、9ホールのゴルフ場はできませんか」等、相談を受けた・・・
(この項の記述は、勇次郎の三男・三宅友三郎氏[=現所有者の叔父]から寄せられたメモに基づいています)。