■中山林之助の生涯 編集中
昭和初期からランを愛好する人たちの間では、育種家として伝説の人になっていました。Webで「中山林之助」を検索すれば、カトレヤの花の写真がヒットします。その写真が載ったページを表示すれば、そこには、「中山林之助」の名前が見えます。一方で「審査員 中山林之助」の名前もヒットします、日本各地で開催されたラン展の審査員や実行委員として請われるままに労を惜しまなかった姿が浮かびます。その生涯と人となりを概観してみます。
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- 誕生(1910)
・明治、大正、昭和を駆け抜けた実業家中山説太郎の長男として、明治43年に生まれました。
- 幼少期~青年期(~1928)
・この頃の動きは不明です、園芸学校を目指したきっかけを探しましたが、発見できていません。
- 千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)時代(1929~1932)
・無菌培養の技術を会得、同窓に台湾で一緒にラン栽培を行う米沢耕一氏がいました。
- 加賀正太郎の京都大山崎山荘でのラン栽培修行時代(1932~1934)
・いわゆる「大山崎詣で」で、後藤兼吉氏に師事し、栽培技術を学んでいます。この間に、ランの産業化の夢を育みます。
- 台湾時代(1934~1940)
・1934(昭和9)年、ランの生産の適地を求めて、台湾に米沢耕一氏と渡ります。1年後、高雄で「台湾園芸生産協会」を設立します。そのころの集合写真です(↓)。前列中央が林之助、後列左端が米沢耕一氏です。後列右端が幼い李金盛氏です。1940(昭和15)年、林之助が本土日本に帰らなければならなくなったおり、李氏は栽培技術習得のため、同行します。
- 帰日と連島郵便局長時代(1940-1978)
・帰日した林之助は、連島西之浦の本宅に帰ります。請われて連島郵便局長に就きます。本宅の側に温室を設けて、無菌培養によるランの育種を本格化します。李氏は、育種技術を学びながら栽培技術を会得していきます。数年後、彼は、神戸の大林家のラン園の管理の仕事につきます。さらに、日本鉱業の島田社長宅の大温室ラン園の管理にもつきます、いずれも説太郎の紹介のようです。李氏は大林家の仕事のかたわら、大山崎山荘にも赴いています(林之助も同行したと推察されます)。6年後、彼は帰台しますが、のちに胡蝶蘭の作出で成功を収め、大財閥を築いていきます。
・太平洋戦争末期、ランの愛好者だった久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)王が中山邸に立ち寄って、林之助のランを鑑賞しています。
・戦中の暖房用石油の不足から京都大山崎山荘の蘭がほとんど枯死します、その再生のため手持ちの多くの親株を提供しています。
・戦後、再発足した日本洋蘭農業協同組合の初期(昭和20~30年)の組合報に栽培や交配について多くの記事を寄稿しています。
- 日本・蘭協会会長時代(1981~1990)
・日本で開催されているラン展で最も永い歴史をもつ「沖縄国際洋ラン博覧会(1987~)」の開催に関わっています、1987~1989は審査員、1990~1991は実行委員を務めています(↓)。
・1987の世界ラン会議/ラン展にも、組織委員会の副会長として尽力します(↑)。
- 日本・蘭協会名誉会長時代(1991~2010)
・コンベックス岡山で開催された蘭おかやま(1991~2006)の企画に携わっています、1996年の第6回には、実行委員長としてその手腕を振るわせています(↓)。蘭おかやま2006の会場でのカトログ!!管理人・運営者の西口進一氏との2ショットです(↓)、西口氏には、このホームページの制作にご協力いただきました。
・2005年、NHKハイビジョンふるさと発「失われた蘭の楽園」に出演、大山崎詣での頃、交配によるカトレヤ新品種の育種と輸出の産業化の夢を抱いたことを語っています(↓)。
・2009年、倉敷国際ホテルで白寿の祝いが開かれました、多くの知人友人がお祝いに駆けつけてくれました(↑)。
- 死去(2010/6/25)
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